ミソスープを作るオカンとはいったい何者なのか。
先週?先々週?ブログに何か書けよと言われてブログの存在を思い出した。
それ以来そういえば何か書きたいなと思いつつも特に書くようなことも無く困っていたのだが、
先日、前々から疑問に思っていたことについて納得のいく結論を導くことができたので、そのことについて書いてみたいと思う。
テゴマスのミソスープという曲をご存じだろうか。
ミソスープ作る手は優しさに溢れてた
大きくない僕だから
寒くしないように温めてくれた
そんな優しさ会いたくなるね
母の作るミソスープを思い出し故郷の母を懐かしむ息子の歌だ。
この歌について常々疑問に思っていたことがある、
ミソスープを作る母とはいったい何者であろうか。
もし彼女がごく一般的な母であるならば味噌汁を作るはずなのだ、
食卓にミソスープを並べる母は外国人なのか。
彼女は国際結婚をして日本に住んでいる外国人妻なのだろうか、
いや違う、それではおかしい。
仮に彼女が日本に嫁いできたロシア人だったとしよう。
旦那が日本人であり日本に住んでいるのなら食卓にミソスープを並べることもあるだろう、
だがそのミソスープは息子にとって母の象徴となり得るだろうか、
所詮そのミソスープは母が結婚してから旦那のために覚えた料理だ、母のアイデンティティとの関連が薄い、この場合に息子が母の象徴として思い出すべきなのは母の作ったビーフストロガノフである。
息子にとってミソスープが母の象徴になるためには母のアイデンティティとミソスープに深いつながりがある必要がある。
そもそも日本に住んでいながら味噌汁をミソスープと呼ぶはずがない、この家族は当然外国で暮らしているはずだ。
つまり、母は日系人なのだ、しかもミソスープを作る母は日系2世のアメリカ人だ。
アメリカ人であると考えるのは、日系人が最も多いのはアメリカだしアメリカならば日常的に味噌を手に入れるのも容易であろうと推測できるからだ。
では何故2世か、1世の日系人は元は日本人なのだから味噌汁を作る、普段英語で会話をしているであろうからミソスープと呼んでいるかもしれないが、彼女の心の中でそれは紛れもなく日本で毎日食べていた味噌汁である、決してミソスープではないのだ。
だが2世になると違う、2世は生まれも育ちもアメリカだ母国語は英語である、元日本人であるところの母が作る味噌汁は2世である彼女にとってはミソスープなのだ。
日系1世である祖母の作っていた味噌汁の味を受け継いだ日系2世の母が作るミソスープを懐かしく思う日系3世の息子、その気持ちをテゴマスは歌っているのだ。
そう考えて歌詞を読み返すと「大きくない僕だから」も日系人ならではの苦労を感じさせる一節だ、日系人はアメリカ人の中では体が小さくて大変なのだろう。
非常に納得のいく説明だと自負している。
ところでこの説はある人物に語りながら考えていたのだが、まあ彼女は人物というよりはペンギンに近い様な生き物なのだが、ともかく僕はそのペンギンみたいな生き物に意気揚々と日系二世の母説を語ったところ、何と「そんなはずがない、母は普通の日本人だ」と言われたのだ。
こいつは驚きだ、これほど完璧な説を聞いてそんな事を言うなんて、そんなはずがないはずがない、だったらミソスープとは何だ、言ってみろと迫ったところ。
ミソスープとは母のオリジナル創作料理だと言うではないか、うん、んー、反論の余地が無い。息子は母がよく作っていたミソスープなる謎の創作料理を懐かしんでいるだけなのである。
その後ミソスープについて検討した結果、コンソメ系の出汁に味噌を溶いたもので具にキャベツやウインナーを入れたもの、ということでまとまった。
こんなしょうもない説に僕の完璧な説と同程度のそうであり得る可能性を認めざるを得ないこともあるということを本日の教訓としてこの話を終わるとしよう。