あぁ今週も誰とも会話しなかった・・・

専業トレーダー。完全無欠の引篭もり。人と一切の関わりを持たない生活。

読書感想文が・・・

このあいだ、とある人の、読書感想文の代筆をした。

さて、宿題で出された作文を片付けたいという目的に対する代筆の最適解は何だろう。

間違いなく可もなく不可もない作文を書くことだ。

ところがどっこいどうしたことか学校代表の数名に選出されてしまったとのこと。

代筆としては完全に失敗である。

 

お前大人気ないな、どれだけ本気で書いたんだよ、と言われそうだが、まあ本気では書いたのだが、僕としてはノーマルな構成の読書感想文を本気で書いたつもりなのだ。本当に本気ならノーマルを崩して狙っていく書き方をする。

 

しかしだ、このノーマルな構成というのが実は曲者で、読書感想文なのだから本の感想を書くのがノーマル、とするならば、現状の読書感想文のノーマルは既にノーマルを崩して狙っていく書き方がノーマルという状態になっている。つまり本の内容を書かない例のアレだ、これは本の話じゃなくてお前の話だろ、という例のやつだ。

つまり僕が本気でノーマルなものを書いたということは、本気で狙って行く書き方をしたということになってしまうのだから、それは本気で書いたということなのでは?とも言えなくはないが、しかし狙っていく書き方がノーマルであるならば、本当に本気で書くなら狙っていく書き方をさらに崩して狙っていく書き方をしなければならない訳だから狙って崩して狙って本気で狙って狙って崩して狙って訳わからん。

要するに、どうせこういうのを書けば良いって言われるんでしょ、ってものを本気で書いたのだ。まあそれが裏目に出たのだろう、まさか評価されるべく書いたものがそのまま評価されるとは、その評価基準はそれで良いのだろうか。むしろ僕が本気で良いと思う読書感想文を書いた方が評価されなかったのかもしれない。

 

言い方で察していただいていると思うが、そもそも僕は評価される読書感想文に対して常々こんなの本の感想じゃないよ、と思っているのだが、実際に僕は今回感想文を書くにあたり本を読んでいない、ネットであらすじを読んだだけだ、だって本の内容なんて書かなくて良いのだから読む必要なんてないのだ。むしろ本を読んでしまい、それが面白かったりしたときには本の感想を書きたくなってしまうに違いない、だが読書感想文にそんなものは求められていないのだ、とするならば、本を読まないことは読書感想文を書く上で理にかなった行為だと言えなくもない。そしてその様にして書いたものが評価されるべく評価されていることは読書感想文の現状に対するアンチテーゼであると嘯いてみたりしようか。

 

ちまにみ今回使った僕のベタだと思う読書感想文の構成はこうだ。

 

 本文から印象に残るシーンの引用(超絶ベタ手法)

 そのシーンを読んだ時の気持ち(短めに、ここで敢えて感想に行かない)

 あらすじ(可能な限り短く端的に)

 導入部(ここからメインの文、ここを最初に持ってこないわざとらしいやり方)

 展開部&引用(話を展開させつつ、その事に関する別の本などからの引用)

 体験談(これは絶対に入れなくてはならないやつ、ある意味ここがメイン)

 主張(ここまでを踏まえた自分の意見)

 〆

 

どうだろうか、結構わかりやすくベタではないだろうか、こういうのが書いて欲しいんでしょ?な感じが出過ぎてしまっているかもしれないと思っていたのだが、どうやらこういうのが書いて欲しかったらしい。

まあお陰様で代筆としては失敗になってしまった訳だけれども。

もう一度言い訳させてもらうなら評価基準をわかっていて基準に乗せている様なものを評価する体制がおかしい、となるのだが、ね、そこまでわかってるなら中の上くらいになる構成で書けよって話だと思わなくもない、それは、すまんかった。